ようちゃんの 人生




心臓の話
自閉症の話




心臓の話

 「誕生日のプレゼントは何がいい?」臨月を迎えた大きなお腹の私に夫は尋ねました。幸い我が家は経済的にも何不自由なく暮らしていける家庭だから、物質的にほしいものなど何もありませんでした。それで私は動物園をリクエストしました。
 4年半もの間、どっぷり一人っ子として育った直樹も兄弟が生まれればどうしてもその赤ちゃん中心の生活を強いられます。だから一人っ子として最後の休日になるであろう日曜日に、動物園で思い切り一人っ子として甘えさせたかったのです。
 その日は丸一日直樹の思ったとおりに過ごしました。動物園に行っても乗り物に乗り放題、お弁当を食べて、だっこしておんぶして肩車。直樹は嬉しくて楽しくて、体中笑顔の一日でした。
 その様子をお腹の中にいた陽平も感じ取っていたのでしょう。その二日後、予定日よりもちょっと早めに陽平は母の羊膜を蹴破って(前期破水)生まれてきました。
「もうすぐ生まれます」病院から連絡を受けて手稲から東区の病院まで夫が車を走らせたのは6月の明け方。広い広い地平線から大きな太陽が昇る、そのころでした。

 生まれてきた子は元気いっぱいに泣きました。そして私のそばに来るとすぐに泣きやみ、寒そうにくしゅん!とくしゃみをしました。同時に大きな太陽が昇りました。
 私は人生の節目で何度か素敵な空の色に出会いました。長男の直樹が生まれた次の朝もそれはそれは柔らかな水色でしたが、この日の空の色も強い強い青。一生忘れることができません。
 何と素敵な朝だったでしょう。私は眠れない朝をまどろみながら空の青さを味わいました。ところがお昼を過ぎたころ、雰囲気は変わりました。
「赤ちゃんの心雑音が強いから、念のために心臓の先生に診てもらうから」仕事中で白衣姿の夫がベッドサイドに来てくれたときも、私はその雰囲気の変化を感じることはできていませんでした。
 その診察室での様子を後ほど看護婦が伝えてくれました。エコー検査のために暗くされた部屋の中、無言のまま二人の小児科医がエコーの画面に見入っている。しばらくしてそのうちの一人である私の夫は床にしゃがみ込みました。生まれたばかりの自分の子の人生の大きさに、立っていられなくなったのです。
 夫はそれからすぐに赤ちゃんを抱いた私に診断の全てを伝えてくれました。心臓専門医は出産直後の私に全てを伝えるのはあまりに過酷なので二〜三日待ってみては、と助言してくださいましたが、夫は私が全てを知りたがるであろうことを知っていたのです。
 夫の口から聞いた子どもの診断名は遙か昔、私が学生だったころにわずかに聞き覚えがある程度の難しいものばかり。
「この子はもう、ダメかも知れない。」すやすや眠る子どもを婦長に手渡した瞬間、私の幸せな朝は暮れていきました。
 「他の赤ちゃんたちの声が聞こえるのは辛いでしょう。」小児科と産科の婦長たちの計らいで、産科の二人部屋を私たち夫婦用に貸してくださいました。そして二人で泣きました。
 夫も一緒に泣いてくれました。夫が泣くのを見たのはこれで二度目。最初はやはり直樹が不整脈を診断された夜でした。白衣のまま、自分の職場の一室で、
「10時まで泣くべ。それから名前を決めるべ。」そう言って夫は大きな声を挙げて泣きました。
 それから10時になって、私たちは子どもの名前を考え始めました。通常、出生証明書は一週間後の退院時に手渡されるものですが、出生証明書と死亡診断書を一緒に出したくない、そして「山田ベビー」ではなく医師や看護婦から親しまれる名前を早く付けてやりたい、そう思って今日中に出生証明を出してもらったのです。
 決まったのは「山田陽平」。陽平が大きな太陽と同時に生まれてきた太陽の子だったからです。一応姓名判断も見てみようか、と本をめくる夫。大吉ではなく中吉でしたがその理由は「才能に溢れすぎて周囲の人から妬まれることも予想されるので大吉から外れる」。それでこれに決まり。この子はきっと病気続きの子だもの、人から妬まれるくらいの才能を望んだのです。
 決まったのは夜遅かったのですが、その日のうちに陽平の名前は産科と NICUには伝わっていたようです。「ようちゃん」「ようへいくん」「ようよ」次の日に私が面会に行ったころには、陽平は名前で呼ばれていました。そのうちの一つ、「ようよ」は今でも私が使っています。

 それからの陽平の人生は案の定手術や入院続き。それでも発見が早かったのと名医たちに恵まれたおかげで陽平は予想外に元気な生活。 「この病気のわりには思ったより元気」が初対面の医師たちの挨拶代わりです。
 たとえ苦しいことが多くても、そして手術ばかりの生活でも、生きていてくれるのならそれでも構わない。夫は決まっていたアメリカ留学も諦めてくれました。いざというときには直樹と二人暮らしの生活を選んでくれたのです。
 本当に幸い、優秀な外科医が陽平の手術を担当してくださいました。全国的に有名でお忙しい外科医なのですが、わざわざ北海道に来て重症な患者さんの手術を手がけてくださる志の篤い人です。この方のおかげで陽平は最も苦しい時期を逃れることができました。そしてさて、根治手術をどうすべきかという判断に差し掛かったころ、もう一方陽平の手術を買って出てくださった方もいましたが、結局当初の先生の
「手術は何度かに分かれるかも知れないが、陽平くんの心臓の状態を少しずつ安全な形で良い状態に持っていきたい」という言葉に全てを託しました。
「この人に任せればもしも陽平が最悪の状態になったとしても後悔することはないだろう。」そう確信したのです。
 北海道内の内科医たちの適切な判断と優秀な外科医の腕と、そして陽平自身が持って生まれた強さのおかげで陽平は予想外の元気さで6回の手術を無事に乗り越えることができました。
 陽平の笑った顔、泣いた顔、怒った顔、どれも今は現実のものとして日々私の生活の中に溢れている。それがどんなに幸せなことか、もしも陽平が何一つ不自由のない子だったらそれを当たり前と考えていたかもしれない。もしかしたら「私のお陰」などと思い上がった考えで自己満足していたかもしれない。
 「陽平くんが病気を持って生まれてきたことは、きっと何か意味があるのです。」陽平が生まれた直後にその病院のシスターが私に言ってくれた言葉ですが、その当時はその意味が全く分かりませんでした。「生き延びなければ意味がない。病気はただの病気だ。」と。
 その言葉の本当の意味は私が死んでから長い時を経て、陽平がその人生を終えるときに答えが出てくることでしょう。でも答えはどこかに必ずあることだけは、いまやっと確信することができます。
 陽平には心臓病の他に障害があります。こちらも確かに生活が大変。心臓が落ち着いた今となってはこちらの方が数段頭を悩ませてくれる。でも私はそんなときにこそあの暑い年の6月の、陽平が生まれたあの日を振り返ります。そして今、辛くても悲しくても、それは陽平が生きていてくれている幸せの中の一部だということを思い出すのです。


自閉症の話

 陽平が生まれてからの生活は、手術と入院の間に二人の息子たちを育てる、といった趣でした。陽平は強度のチアノーゼと心不全の狭間で、動くこと座ることを嫌いました。だから当然運動発達は大きく遅れていました。
 首の座りは7ヶ月、お座りができるようになったのは1歳半。可能になっても体は苦しかったからすぐに寝てしまいます。でもそんな運動発達の遅れよりも言葉と心の発達の遅れがときどき気にかかりました。人との関わりを拒否することが多く、父親も含めて大人が1.5m以内に近づくと泣き出しました。
「ようちゃんはこれまで何度も痛くて辛い目に遭ってきたのだからしかたがない」誰もがそう思いました。私自身もそう思っていたのです。
 しかし陽平には人間嫌い、言葉や情緒の発達が特に遅れている、白いものしか食べないなどの他にもいろいろ気にかかることは多々ありました。しかしそのときはまだ私は陽平を信じていました。陽平には自閉症らしくない部分もあったのです。
 赤ちゃん時代の陽平はよく笑いました。入院中もイナイイナイバーやバイバイなどの芸をよく覚え、親子で楽しみました。ところが生後8ヶ月で2度目の手術を終えて私の元に帰ってきた陽平は雰囲気が少し変化していました。手術がうまくいって以前よりも体はかなり楽になったはずなのに、陽平は怯えたように泣いてばかり。そのときの私はまだ気づかず、陽平は感受性の強い子だから人見知りが早めに来たのだろう、陽平は陽平にしかわからない辛い体験を積んだのだろう、くらいにしか思っていませんでした。
 「何度か手術をして心臓の状態が良くなったらきっと立って歩き始め、視点が世の中に向き始めたら安心しておしゃべりを始めるだろう」そんな期待をしてしまうようなものが陽平の中にはたくさん感じられたのです。でもその後陽平の人見知りが治ったのはそれからずっとずっと先のこと、人並み外れた長い時間を要しました。

 陽平の心臓はジャテン氏術から一ヵ月後の主肺動脈絞扼術(バンディング)で大きな転機を迎えました。ジャテン氏術で血流の方向とバランスが大きく変わってチアノーゼが大きく改善され、バンディングで肺血流量をコントロールして心不全を抑えることができました。それ以降は見る間に食べるようになり、呼吸も睡眠も安定し、体力もついて、手術の成功が素人の私にも手に取るようにわかりました。
 それまで歩くことのできなかった陽平はそれから間もなく兄の直樹の7歳の誕生日に歩き始めました。笑うことが増え、母の顔を両手で挟んでは「オレの話を聞け!」とばかりに喃語をいつまでも母に語っていた陽平。その眼差しの強さに、私はときどき浮かんでくる疑問を消されていました。「陽平は自閉症じゃない」と。
 私のこの迷いは当時の心臓の主治医に相談を持ちかける瞬間まで続いていました。「先生…」と声をかけたその瞬間ですら私は心のどこかで信頼している医師に否定してほしかったのかもしれません。でも主治医は私の話にじっと耳を傾けてからカルテに「自閉的な傾向」と書き込みました。陽平を抱いた私の耳の奥では、崖っぷちで最後の命綱が切れる音がしました。確かに心臓の主治医は自閉症に関しては専門ではありませんが、そのときの彼の直感は私の疑問を裏付けるのに十分でした。
 陽平の自閉症の診断は最初からスムーズではありませんでした。それでも陽平が専門的な療育を受けるのには十分でした。診断が何であろうと陽平の情緒発達が遅れていることは確かで、このまま家庭で過ごしていただけでは陽平の遅れは取り戻すことはできず、専門的な療育を受けることによって何か少しずつでも良いから陽平の幸せを掴むきっかけを作りたかったのです。
 私たちが選んだのは札幌市の知的障害児通所施設「はるにれ学園」でした。陽平と同じ自閉症の子やダウン症その他の情緒発達が遅れた子どもたちが通う専門の幼稚園です。明るい雰囲気と子ども一人一人に合わせた細かな対応が可能なこの学園で、陽平と一緒に私は障害とともに暮らす楽しさを掴みました。
 陽平の人間嫌いはどこかに吹き飛び、保育士たちとの暖かい関係の中で陽平は互いに関わる幸せをどんどん吸収してゆく。上手に人と関われないことが陽平の障害なのだから、トラブルはもちろん多々生じました。それでも臆することなく堂々と生きてゆけ。ここがおまえの人生の第一歩なのだから。そう心から陽平の情緒障害を歓迎することができたのもはるにれ学園時代でした。
 そうして陽平は人生の第一歩を幸福のうちに踏み出し、そしてはるにれ学園を卒業しました。

 陽平の入学した小学校はお兄ちゃんと同じ小学校の特殊学級でした。それまでその小学校には特殊学級はなく、特殊学級に入学するとなると最も近いところでも大人が歩いて30分はかかるであろう場所にありました。陽平が一年生の時には直樹は六年生。たった一年ではあってもお兄ちゃんと同じ小学校に通わせてやりたい。世間では当たり前のことを私は強く望みました。
 それともう一つ、陽平を近所の子どもたちから孤立させたくなかったのです。もしも遠くの小学校に通うとなると近所の子どもたちとの接点が極度に減ります。もともと就学まで遠くのはるにれ学園に通っていた子です。「小学生風なんだけど学校の中では見たことがない」「あの子、何だろう」そんな訝しげな眼差しが「あの子、ようちゃんだよ。ちょっと変わっているけど悪気はないんだって。」に変わってくれたら…。
 それで無理を承知で、当初はお兄ちゃんと一緒の一年間に限って通常学級への入学も本気で考えました。
 しかし陽平の幸せを考えれば通常学級で一把一絡げの教育を受けるよりも、特殊学級という静かな環境で陽平に合わせた学習プログラムを受けたほうが良いのはわかりきっていました。通常学級ならば周囲の友だちが皆、自分よりも難しい授業に楽しく参加している。でも陽平はそれを楽しめない。そんな苦痛な時間が1時限45分間、1日4時限、それが一年間続くのです。大人にとっては「たった一年くらい」かもしれませんが陽平にとっては「長く苦しい一年」になっていたでしょう。だから私は「地域でお兄ちゃんと一緒に暮らす楽しみ」を捨てる覚悟で「陽平に合った楽しい時間」を選択し、遠い小学校への入学を選ぼうとしました。
 ところがちょうどその年にお兄ちゃんの学校に特殊学級が新設されることになりました。「地域で暮らすこと」と「陽平に合った教育プログラム」という、障害がなければ当たり前の幸せを同時に手に入れることができたのです。
 朝日の中を二つのランドセルがキャイキャイ並んで歩いてゆく。夢にまで見た光景です。新設当時、生徒は陽平一人だったので全校生徒が「ようちゃん、ようちゃん」と声をかける。陽平もお兄ちゃんのクラスメイトたちに大きな声で挨拶し、笑い、歌い、泣き、走ることが許され、理解される楽しい学校生活。学ぶことを賞賛され、集中できる充実感を陽平は今満喫しています。
 それがたとえイタズラだったり他人への迷惑として現れたりすることもあるけれど、それでも許される環境の中で一つ一つの問題をにこにこ笑いながらクリアしてゆく陽平。このままどんどん前に向かって歩いてゆけ。とうさんやかあさんがついているから、ニイチャンが笑っているから。そして世の中だってアンタのことを見守っている。



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